ひっそりとした日記です。生きていきたいの叫び。

兎にピアス

身体にタトゥーを入れた。入れ墨なんて立派なもんじゃないけど。

タトゥーもピアスも身体中バチバチのお兄さんに入れて貰った。

自分の身にカッターの刃を入れる時より孤独ではなく、ニードルで耳の軟骨をぶち抜く時より痛くなかった。むしろ痛みは心地よくあった。

胸の中央は骨が出ているので痛みは感じやすい。けれど、入れて貰った夜のうちからベッドで次の図案をピンタレストで探すくらい、なんだか夢中になってしまった。

台に身体を横たえて、彫刻をしてもらうように、身体に絵を入れてもらう感覚は、まるで自分が材料になってまな板の上で調理されるような感覚は、ライオンに伏された捕食対象みたいな気分だった。

私は全然若気の至りなんて思っていない。どうせ死ぬならやりたいことやってみたいだけ。好きに生きて、好きな時に死にたいだけ。だけど普通の会社員をして、現実も見て生きているという事実があるだけ。欲張り。生きていくのは現実を見るってことだから、だったら少しでも呼吸しやすくいたい。この身体も好きになりたいだけ。

 

次は何を彫ろうか、次はどこにピアスを入れようか、思案の楽しみは少しばかり続きそう。

恨みつらみ

大谷翔平の目標シート(マンダラチャート)をご存知だろうか。

あれ、会社の上層部に立つような人が好きなあれ。

マンダラチャートとは一番大きな目標を中央に書いて、そのために必要なことを細分化していくもの。

例によって(?)「やってみたら(いややりなさい)?」とアドバイスされたのでノロノロと手をつけ始めた。

だけど、私が中央に置く目標なんて「生きる」以外ない。「生き抜く」でも「生き続ける」でもいいけど。生きることそれ自体が目指すことだ。だって今にも落ちたり吊ったり切ったりしそうなのに、何を目標にって生きること以外ないだろ。

……という感じでその先が進まない(それは自分のせい)。

 

私だってそんなマンダラチャートをやろうと思うくらいには悩んでいるのだ。

だって生きる以上、何かを目指さないと生きていけないじゃあないの。

やりたいことがないという普遍的で凡庸な悩みに苛まれている。

この資本主義社会では働かないと食えず、すべてを金に変えて息をする。

だけど、中心を「生きる」に置いて書き出したら、何か生きる先の目標が湧いてくるかもしれない。

そう希望とか願いを込めて格闘するのだ。

 

そういう、私は凡庸でつまらない、普通の人間。

だけどそれを愛してもいるかもしれない。

まだ生きているから。

節目

新しい友達。大人になってから新しい友達ができることは少ないように思う。でも思うに、大人になってからできる友達の方が面白い。

彼女は私とほぼ同い年。アラサー。なぜか30歳というのは節目だ。私はあまりそう思わない。思わないというか、思わないようにしている、のだろう。あんまり意味がないと思うから。意識したところでそれがなんだというんだ、と思う。そうは言ってもなんとなく心と頭の片隅にある、30歳という数字。仕事だとか、恋愛だとかで「結果」が付いて回る年。いつも思うけど、なんで30歳なのか不明。人生100年なんだし、50のが半分でキリが良くないか?そういうことではないのか……?

兎にも角にも、なんか結果を求められているような気になるのだ。そわそわして落ち着かない。そんな話をした。30歳を目前とした焦り。よくよく考えたら本当に意味不明なこの焦り。

30歳ってもっと大人だと思っていた。いや、もっと別の生き物みたいに思っていた、が正しいか。実際は、当たり前だけど「生きてきたような人間にしかならないし、なれない」のだろうと思う。私自身は、凝り固まった将来像みたいなものが好きじゃないので先のことはあんまり考えていない。それがいいとは思ってないけど。

なんか別に年齢がどうとか考えないで好きなものを着て、好きなことしたらいいのにな、とか思うけど、自分があんまり若向きなもの(年齢に縛られるようなもの)を好まないからそう思うだけなのかもしれない、と思った。年齢を気にせずにいられない趣味とかもあるよね。その場合の向き合い方って私は答えがまだ見つからない。人間は年を取っていく一方で、逆向はできないからね。

 

並行して労働の話もした。資本主義では息をするのにも金が要る。なんかしらの手段で収入を得ないと息すらできないのだ。社会人になってからというもの、割と最近まで社会に馴染もうとしていたし、もっとお金を得る=出世するための方法を色々頑張ろうとしていたけど、今はあんまり考えたくなくなってきた。資本主義は臨界点まで達しようとしていて、いつか限界が来る。それなら、金にならなくてもいいし、もはや愛してなくてもいいから、ただ発露したいことを吐いていくのがいいかもしれない、という気持ちになった。誰も見なくていい。私が私のためだけに発露する。急に腑に落ちた感覚があった。もうなんか好きじゃなくてもいいから、赴くままにやってみてもいいか、と思った。たぶん、あんまり自分の人生に興味がないのもある。

 

そうは言っても労働は明日からも続くし、生活も続く。私自身は破綻したりまとまったり、呻きながら尺取り虫みたいに伸び縮みを繰り返しているけど、たまに長年出ていた霧が晴れる事もあるだろう。そういう日のことを思うと、なんか明日もとりあえず続けていけそうな気がする。

 

覚え書き

デートはそんなに自分の服装に気持ちがいかないのに女の子と遊ぶ時は何着るか試行錯誤するし、それがすごく楽しい。待ち合わせ場所に意気揚々とモデルの気分で闊歩して行く。やはり同性の前の方が好きな服=個性を出してもいい服を着やすいし気づいてくれるから(認められたいから)だろうか。まあ、デートの方が「念入り」ではある。

恋の終わりの予感の話をした。現実は重たい。どうにでもなるようでどうにもならなかったりする。明日か3年後か考えたくないけどそういう日は突然やってきてしまったりする。だからセオリーばっかり読まないで目の前の人のことよく見ていたいなあ、と思った。

 

「他人」という言葉について。他人という価値観の定義は人によってかなりニュアンスが違うことに気づいた。それに自覚的になったきっかけはあるエッセイだったが、内容は全く関係ないので省略。その文では「今は他人」というように書かれていた。今は他人。ありふれたフレーズのはずだが、私は他人感、とでも言おうか他人の定義が著者とは違っていた。私は「人類皆他人」という感覚で生きている、そう思い知らされた。親しい友達であろうが、恋人だろうが家族であろうが赤の他人。私以外私じゃないのだから。私はこの感覚はとても大事だと思っている。他人事じゃないから誰かに起こった事件をその人自身のように驚いたり泣いたり怒ったりするのは確かだ。

死にまつわる愛

自ら死のうという時、全ての愛に満ち溢れると聞く。

私もそういう経験はある。終焉に伴う全人類的な愛。ラブアンドピース。多幸感。

自ら死ぬことはない、と決めた人間にとっては、そこに愛はないらしい。
(そこに愛はあるんか?いや、ない)
今の私は、愛に絶望することがなく、ただし死への望みだけは消えない。
先日「corsage(エリザベート1878)」を観た。端的に言ってしまうが、過去も今も幸せだったら死を望むことはたぶんないのだと思う。感情の発露の先に、死を望むということがあるような気がする。また、愛があるから死ぬということも微妙だ。結果として、自らの死という行為が起きることは繰り返されているが、愛ゆえの死、というのは根本にはない気がする。

死を望んでいる時、愛はないのか。
難しい。愛している人がいても死ぬ人間は死ぬ。それは身勝手だから?

私はどんなに愛する人でも、本当に自ら死のうとするのなら止められないだろう。
愛している人の全てを受け入れたいのだ。それから、どんな組織(社会、会社、家族)も、私抜きでも平然とまわって欲しいのだ。そうあるべきだとすら思っている。

死を抱くことと愛を抱くことは同質だと思う。それゆえに人は生きていく。
終焉を迎えるとき、どんな気持ちになるだろう。全ての愛に満ち溢れるとしたらそれは生きた証の結晶だ。

光の方へ

心の治療を始めてからもうすぐ半年くらいになる。

貰った薬はかなり効いた。驚いた。普通の人ってこんなに軽い気持ちで過ごしているのだろうか。いや、みんな飲んだ方がいいんじゃない?と思わず勧めたくなるくらい「どん底」がなくなった。あんまり良いので「おすすめコスメ」くらいのノリで紹介しそうになる。

 

心が安定、むしろちょっとうわずったような心で過ごしていたけど、ひさしぶりに「私に人生はまだ早かったか」と思った。落ち込んだ。影響される必要はないよというのもわかっているし、何を友達でも知り合いでも何でもない人間の死に様に、と思う。

良し悪しは置いておいて、無事に遂げられて良かったじゃないかとも思う。あちらの世界のことは知らないが、ひとまず現世の苦しみからは逃れられたのだ。けれども。

六十を過ぎても人生は過酷で苦しいのか、その孤独を耐えかねるのか。自ら赴く死が暖かいのか、そこまで自信をなくすほど打ちのめされてしまうのか。厳しすぎる。

絶望の淵はすぐそこにずっとあって、いつでも私たちを暖かく包み込もうとしてくる。

それがいかに魅力的かというのはみんなが知るところだ。

隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しい。

 

私は光の方へ行くことを選んで、今のところ振り返ることなく歩んでいる。

 

 

光の方へ

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HBD

最近、誕生日を迎えた。若さの残り火を燃やしている。いつか自分で思いっきり吹き消す。クリームのついた唇を尖らせて。

大人になれないまま年は重なっていく。そういうものかとわかってきたから大人になれたし、年を取っている。年を重ねることが、いつまでも濁らずかわいくありたい。

 

私は心がダメになってしまうことが多い。日記(筆記)をやめたのは、毎日ノートに2ページも3ページも遺書を書いている異常事態になってしまったから。山田花子自殺直前日記、あの本を初めて手にした10代後半、山田花子漫画の痛い程の崩壊の世界を見て「私はここまで狂えない」と思ってからは生きていかなければ、を抱えている。

転職してからかつてない激務になり、回復してきた心がいっぺんにダメになってしまった。実力にないほど頑張ろうとしてしまったと思う。

まだ頑張りたい気持ちはあるけど身体がついていかなくなってしまった。

今までは(合法な)依存物質に頼って何とかしてきたし、今もそうしているけど、だいぶくるしくなってきた。生きていきたいから。生きていきたいと思えるようになったから。そんなこんなで一念発起してただ自分でやっている「わたし回復プログラム」の一環で、とうとう生まれて初めてメンタルクリニックの予約をした(笑うところです)。

「死ねたらいい」「死ぬことが一番幸せ」今もそれは思っている。それは人生に対する普遍的かつ永続的な問い。でもその幸福をタダで幸福なままに与えられることは難しいのだと思う。死んだことないからわかんないけど。

全然、ネガティブとかメンヘラとかではなくて、「自分のいわゆる”繊細さ”とうまくよろしくやっていけないなら死んだ方がマシ」というのがこの短い人生の感想。うまくいきていきたいのです。せっかく愛する人間も少なからずいるので。

 

愛することのできる人間がいるのは幸福ですね。これは大事なことだけど関係性にこだわらずです。温度のある関係はたくさんの幸福になる。本当にそうだよ。

 

酒になるべく溺れないで(もう溺死しそうだけど)、

たくさん栄養を取ってたくさん寝ようね。

 

神様を信じる強さを僕に!生きることを諦めてしまわぬように!

それでも、それでもそれでも生きていかざるをえ・な・い〜〜〜〜!